朝方、まだ薄暗い寝室の中で、あかりちゃんが小さく僕の名前を呼んだ。
寝ぼけた声かと思ったら、どこか緊張を含んだ響きだった。
「ねえ……なんか、いつもと違う感じがするの」
その瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
ついに――その時が来たのだと直感でわかった。
彼女は落ち着いた表情をしながらも、握る指先が少しだけ冷たかった。
僕は手を包んで「大丈夫、大丈夫だよ」と声をかけると、あかりちゃんはかすかに頷いた。
支度をしてタクシーに乗り込む。
外は少し曇っていて、冬の朝の冷気が街をまだ眠らせている。
車内の静けさが、ふたりの胸をさらに高鳴らせていた。
■ 病院に着いて、始まる“大きな時間”
病院に入ると、白い廊下が思った以上に暖かく感じた。
案内されながら、僕はずっとあかりちゃんの背中に寄り添う。
看護師さんの優しい声に導かれながら、彼女は深呼吸を繰り返していた。
「……いよいよなんだね」
「うん。でも、あなたがいてくれるから大丈夫だよ」
そんなふうに言う彼女の強い瞳に、思わず涙がにじみそうになる。
僕は手を握り、少しでも安心させたくて、
「ずっとそばにいるからね」
と、何度も何度も伝えた。
時間がゆっくり流れていく。
病室の時計の針の動きが大きく聞こえるくらい、静かな空間だった。
その合間に、あかりちゃんはふっと笑って言った。
「ねえ、赤ちゃん……どんな顔してるのかな」
「きっと、あかりちゃんに似てるよ。優しい目の子だよ」
「あなたにも似ててほしいな。あなたの笑った顔、すごく好きだから」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
この人と家族になるんだ――そんな実感が高まっていく。
■ 心で寄り添い合う時間
スタッフの方に呼ばれる直前、
僕はあかりちゃんの手を両手で包んで、顔を近づけた。
「大丈夫。必ずうまくいくよ。俺もここにいるから」
「うん……ありがとう。私ね、なんだかね……すごく安心してるよ」
その言葉を聞いた瞬間、
彼女はどれほどの気持ちを抱えながら今日を迎えたのだろう、と胸がいっぱいになった。
あかりちゃんの瞳は、いつになく凛としていて、
その強さと優しさに、僕は改めて恋をした。
「ふたりで頑張ろうね」
「うん……ふたりで」
そう言って、互いに微笑む。
その短い会話が、この先の人生を支えてくれる気がした。
■ そして――新しい命の声
しばらくして、
病室の空気が変わるような瞬間が訪れた。
小さく、でも確かに聞こえる――
あたたかい、泣き声。
世界が一瞬止まった気がした。
胸が熱くて、視界がぼやけて、呼吸さえ震えているようだった。
その声が生まれた瞬間、
僕は何もかもを忘れて、ただ両手で顔を覆って泣いていた。
長い時間、一緒に待って、一緒に乗り越えて、
その瞬間をふたりで迎えられた。
看護師さんに呼ばれて立ち上がると、
そこには、小さくて温かい命が、白いタオルにくるまれて眠っていた。
「お父さんですよ」
その言葉が胸に深く染み込んだ。
あかりちゃんは疲れているのに、
まるで光をまとったみたいに綺麗な表情で僕を見上げていた。
「……生まれたよ」
「うん……ありがとう。本当に、ありがとう」
手を握ると、彼女は静かに微笑んだ。
その笑顔はこれまででいちばん幸せそうで、
僕はその姿にまた涙がこぼれた。
赤ちゃんの小さな手が動くたび、
ふたりの胸に温かいものが満ちていく。
「これから三人だね」
「うん。家族だね……ずっと」
今日、この瞬間が、
僕たちの人生でいちばん大切な一日になる。

