夏の終わりの風が少し涼しくなってきたころ、
あかりちゃんからのLINEは、いつもより短かった。
『今日、ちょっと疲れちゃったかも。』
『……会ってもいい?』
絵文字も顔文字もない。
その文字だけで、
彼女が何かを抱えているのが伝わった。
「もちろん。すぐ行くね。」
そう返して、
僕は部屋を出た。
あかりちゃんのアパートに着くと、
玄関のドアが静かに開いて、
彼女が小さく「こんばんは」と言った。
部屋の灯りはいつもより少し暗くて、
カーテンの隙間から街の明かりが滲んでいた。
ソファに座る彼女の顔は、どこか疲れて見えた。
「仕事、大変だった?」
「うん……ちょっとね。」
小さな声。
エステで働く彼女は、
お客さんとの会話や笑顔を大切にする仕事をしている。
でも、その分、心をすり減らす日もあるのだと知っていた。
僕はキッチンでお湯を沸かし、
棚の奥にあったココアを見つけてマグカップに注いだ。
「はい。甘いの、飲む?」
あかりちゃんは少し驚いたように顔を上げて、
「……ありがとう。」と微笑んだ。
湯気の向こうで、
彼女の指先が少し震えていた。
「なんかね、今日はうまく笑えなかったの。」
ココアを両手で包みながら、あかりちゃんが言った。
「お客さんに“元気ないね”って言われちゃって。
ちゃんと笑いたいのに、
顔が引きつっちゃう感じで。」
「頑張りすぎちゃったんだね。」
そう言うと、
彼女は小さくうなずいた。
「うん。私、笑うのが好きなのに、
好きなことなのに、うまくできない日があるのが悔しくて。」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥がきゅっと痛んだ。
頑張り屋な彼女の、
誰にも見せない弱さを、
こうして受け止められることが、
少しだけ誇らしかった。
「ねぇ。」
僕はそっと言った。
「笑えない日があってもいいと思うよ。」
「……そうかな。」
「うん。
人の笑顔を大切にする人だからこそ、
疲れちゃう日もあるんだよ。
そういう日は、俺が隣で笑ってるから。」
あかりちゃんは、
その言葉に少しだけ息を呑んだようにして、
やがて静かに笑った。
「……ずるいなぁ。
そういうこと言われると、泣きそうになる。」
「泣いていいよ。」
そう言って、
僕はそっと彼女の肩を抱いた。
最初は少し硬かった体が、
ゆっくりと僕の胸にもたれかかる。
小さな吐息と、
かすかに震える指先。
「ほんとに泣いちゃうよ。」
「泣いていい。
今日は、無理に笑わなくていいよ。」
その瞬間、
彼女の肩がふっと震えて、
小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。
しばらくのあいだ、
部屋の中には言葉がなかった。
ただ、静かな夜と、
窓の外を通り過ぎる車の音だけ。
僕はそのまま、
あかりちゃんの髪を撫でながら、
心の中で思った。
――この人を、守りたい。
――この人の笑顔を、これからも見ていたい。
やがて涙が落ち着いたころ、
あかりちゃんは照れくさそうに笑って言った。
「泣いたら、スッキリしたかも。」
「うん。それがいいんだよ。」
「ねぇ、今度、どこか行こうよ。
何も考えないで、ぼーっとできる場所。」
「いいね。海とかどう?」
「うん、海。波の音、聞きたい。」
その笑顔を見て、
胸の奥がじんわりと温かくなった。
ココアの残りを飲み干したあと、
彼女は僕の肩に頭を乗せて、
「ねぇ。」と小さく言った。
「今日、来てくれてありがとう。
あなたがいてくれるだけで、
ちゃんと“自分”に戻れる気がする。」
「俺も同じだよ。
あかりちゃんがいると、
毎日がちゃんと意味を持つ気がする。」
「……ほんと?」
「ほんと。」
あかりちゃんは少しだけ目を閉じて、
「そっか……それ聞けて嬉しい。」とつぶやいた。
部屋の灯りがやわらかく揺れて、
外から秋の虫の声がかすかに聞こえた。
その夜、
何も特別なことはしなかった。
ただ、静かに寄り添い合って、
温もりを分け合った。
でも、その時間こそが、
何よりも深く、確かな“愛”だった。
帰り際、玄関まで見送ってくれたあかりちゃんが、
ふと僕の袖をつかんだ。
「ねぇ……ほんとにありがとう。」
「うん。」
「……これからも、甘えていい?」
その瞳は、
もういつもの彼女の笑顔に戻っていた。
「もちろん。」
そう答えると、
あかりちゃんは少し笑って、
「じゃあ、またすぐ会おうね。」と手を振った。
その笑顔を見て、
僕は改めて思った。
――あかりちゃんの涙も、笑顔も、
全部、愛しい。
そして、
この恋はもう、
“恋人”という言葉では足りないほどに深まっていた。

