夕方の風が、少しだけ夏の匂いを含みはじめていた。
日差しはやわらぎ、影はやんわりと長く伸びて、
街全体が一日をゆっくり閉じていくようだった。
「ねぇ、少し散歩しない?」
あかりちゃんが、夕飯の下ごしらえを終えた手を拭きながら言った。
「いいよ。ちょうど外の風が気持ちよさそう。」
僕が言うと、あかりちゃんは満足そうに笑った。
玄関を出ると、茜色の空が広がっていた。
並んで歩くと、いつの間にか自然と手がつながる。
指をからめるあかりちゃんの手は、いつもより少し温かかった。
駅へと続く大通りをそれ、
新しく見つけた小さな住宅街の公園へ向かう。
犬を散歩させる人や、帰り道の小学生たちの姿は少なく、
公園を包む空気は静かで、初夏特有の草の香りが心地よかった。
ベンチに腰を下ろすと、
あかりちゃんはそっと僕の肩にもたれる。
「……ふふ。なんか、こういう時間って幸せだね。」
「わかるよ。何もしない時間って、意外と大事だよね。」
「うん。
あのね、最近すごく思うの。
私、昔から“特別なこと”に憧れてたけど……
いざふたりで暮らしてみると、
普通の今日が一番宝物みたいに感じるんだよね。」
そう言いながら夕空を見上げる横顔が、
やわらかい光を受けて美しかった。
僕はそっと、
彼女の肩に腕を回した。
あかりちゃんは少し驚いたように身を固くしたあと、
ゆっくりと体を預けてくる。
「……えへへ。急に優しくされると、なんか照れる。」
「だって、隣にいるのが嬉しいから。」
「……もっと言っていいよ?」
いつの間にか、二人の距離はまた少し縮まっていた。
装着するだけで、睡眠の質などを可視化できる指輪型デバイス【スマートリカバリーリング】ベンチから立ち上がると、
公園の中央にある花壇で、淡いピンクの花が風に揺れていた。
「あ、ネモフィラだ。」
あかりちゃんが近づいてしゃがみこむ。
「ほら、かわいいよ。涼しげな色。」
僕も隣にしゃがむと、
彼女が小さく笑う。
「ねぇ、来年はふたりでどこかに、
もっとたくさんのネモフィラを見に行きたいな。
広い丘に、青い絨毯みたいに咲いてる場所。」
「いいね。行こう。
来年も、再来年も、その次の年も。」
そう言うと、
あかりちゃんの横顔がそっとゆるんだ。
「……こうやって“来年も”って言われるの、
すっごく嬉しい。」
耳まで赤くしてそう言う彼女の手を、
そっと包み込む。
初夏の風が二人の間をすり抜けて、
草の匂いと夕暮れの香りを運んだ。
家へ戻る道の途中、
あかりちゃんがふと立ち止まる。
「ねぇ……大げさかもしれないけど、
こんな風に手をつないで歩きながら思ったの。
“この人とだったら、どんな毎日も平気だな”って。」
その言葉は、
普段の明るさとは違う、
心の奥からそっと零れ落ちたような声音だった。
僕はゆっくり彼女の手を握りなおす。
「……僕もだよ。」
「ほんと?」
「うん。
これから先、つらいこともあるかもしれないけどさ。
でも、あかりちゃんが笑ってくれたら、
それだけで全部乗り越えられる気がする。」
あかりちゃんは足を止めたまま、
大きな瞳で僕を見つめ返してきた。
夕日の色がその瞳に映り込み、
胸がぎゅっとなるほど綺麗だった。
「……そんなこと言われたら、
ずっと隣にいてあげたくなるじゃん。」
そう言うと、
彼女は小さく僕に抱きついてきた。
夕暮れの風が吹き抜ける中、
しばらくそのまま、
ふたりは静かに寄り添っていた。
家に帰りつく頃には空はすっかり暗く、
道にぽつぽつと灯る明かりが、
ふたりの影を寄せては離し、また寄せた。
玄関を開けた瞬間、
あかりちゃんがふっと笑う。
「ねぇ……やっぱりここ、
ふたりの家なんだね。」
「うん。帰ってくる場所だよ。」
「そうだね……」
彼女は僕の手を握ったまま続けた。
「今日ね、歩きながらずっと思ってたの。
“この人と、一生一緒にいたい”って。」
胸が静かに震えた。
言葉にしなくても伝わる想いが、
確かにそこにあった。
ただの散歩のはずが、
ふたりにとって大切な日になった。
夕暮れの色と初夏の風が、
そのすべてをそっと祝福してくれていた。

