窓の外で、スズメの声がした。
その声を聞きながら、
あかりちゃんの寝息が隣からかすかに聞こえる。
引っ越してきてから、今日でちょうど三日目。
まだダンボールがいくつか残っているけれど、
この部屋はすでに“ふたりの家”の匂いがしていた。
カーテンの隙間から入る朝の光が、
彼女の髪にやわらかく触れている。
寝顔を見るたびに思う。
――この景色が、ずっと続けばいい。
キッチンに立って、
コーヒーを淹れる。
古いポットから立ちのぼる湯気が、
新しい空間に溶けていく。
「……おはよう。」
振り向くと、寝ぼけた声であかりちゃんが立っていた。
パジャマ姿のまま、髪が少し乱れていて、
それが妙にかわいかった。
「おはよう。起こしちゃった?」
「ううん。なんか、いい匂いがしたから。」
彼女はそのまま僕の隣に来て、
カップに注がれたコーヒーをのぞき込む。
「今日の朝ごはん、なに?」
「パンとスクランブルエッグ。あとサラダ。」
「いいね、もう立派な“新婚さん”だね。」
そう言って笑う。
「……まだ、そう呼んでもいいのかな。」
「いいよ、もう“なる予定”なんだから。」
あかりちゃんはカウンターに肘をついて、
ちょっと得意げに言った。
その無邪気な表情に、
なんだか胸の奥があたたかくなる。
食卓につくと、
あかりちゃんがポケットから小さなメモを取り出した。
「なにそれ?」
「今日の“やることリスト”。」
「もう作ったの?」
「もちろん。掃除して、カーテン干して、あとね……」
そう言いながら、指先で紙をトントンと叩く。
「“新しい家の神様にご挨拶”って書いてある。」
「神様?」
「うん。子どものころ、
お母さんが教えてくれたの。
新しいお家に引っ越したら、
“今日からよろしくお願いします”って心の中で言うんだって。」
「なるほど。それなら、一緒にやろう。」
ふたりで窓を開けて、
朝の光を部屋いっぱいに入れる。
春の風が、カーテンをふわりと揺らした。
「……よろしくお願いします。」
そう小さくつぶやくと、
あかりちゃんが笑ってうなずいた。
「ねぇ、いい部屋だね。」
「うん。」
「音が静かで、風がやさしくて……」
彼女の声が、まるでこの部屋の一部になったみたいに響く。
昼前、
ふたりで近くのスーパーへ買い物に行った。
エコバッグを下げて、
新しい街を並んで歩く。
「この通り、桜並木だったんだね。」
「うん、葉桜になってるけど、きれいだね。」
「来年は満開のときにここ歩きたいな。」
「じゃあ、約束。」
そう言って小指を出すと、
あかりちゃんも照れくさそうに指をからめてきた。
その瞬間、
胸の奥で“これが本当の暮らしなんだ”と実感した。
買い物袋の中には、
野菜とお肉と、
そしてあかりちゃんが選んだ花束。
「玄関に飾ろうと思って。」
「いいね。春の色だ。」
「ね、かわいいでしょ。」
オレンジと白のチューリップ。
彼女の笑顔と同じ色をしていた。
午後、
洗濯をして、掃除をして、
夕方には少し疲れてソファに並んで座った。
「ねぇ。」
「うん?」
「私ね、こういう日をずっと夢見てたんだ。」
「どんな日?」
「なんでもない日。
でも、大切な人と過ごす日。
“幸せだなぁ”って、ふと感じる時間。」
僕はその言葉を聞いて、
彼女の手をそっと握った。
「それなら、今日から毎日そうしよう。」
「毎日?」
「うん。これからは、どんな日も“ふたりの日”だから。」
あかりちゃんは笑って、
僕の肩に頭を預けた。
カーテンの隙間から、
夕方の光が淡く差し込む。
その静かな時間が、
まるで永遠のように思えた。
夜。
部屋の明かりを少し落として、
ふたりでココアを飲む。
「ねぇ、これからもずっと、
朝起きたら“おはよう”って言い合える関係でいたいな。」
「うん、約束。」
カップを合わせる音が、
小さく響いた。
外の風は少し冷たかったけれど、
この部屋の中には、
確かに春よりもあたたかい空気が満ちていた。
その夜、
眠りにつく前に、
あかりちゃんが小さな声でつぶやいた。
「ねぇ、ありがとう。」
「どうしたの?」
「こんな日々を、私にくれて。」
僕は彼女の髪をそっと撫でて、
「これからもずっと続けよう。
ふたりの“なんでもない日”を。」と答えた。
その言葉に、
あかりちゃんはうれしそうに笑って、
「うん。」とだけ言った。
――
あの夜、
春の風が窓の外を通り抜けた。
それは、ふたりの新しい季節を祝福するように。
そしてこの日から、
“ふたりの朝”が本当に始まった。

