部屋の明かりを少し落とした夜。
時計の針は、すでに深夜をまわっている。
つい数日前まで夫婦ふたりの静かな夜だった場所が、
今は小さな息づかいと、時々聞こえる泣き声に満たされていた。
「……起きちゃったね」
隣であかりちゃんが、小さくつぶやいた。
ベビーベッドから聞こえる声は、さっきまで寝息を立てていたのが嘘みたいに力強い。
生まれたばかりの小さな体なのに、あんなに全力で泣けるんだな、と毎回思う。
僕が立ち上がろうとすると、
「私いくよ」とあかりちゃんが静かに身体を起こした。
「無理しなくていいよ。まだ体だって本調子じゃないんだから」
「ううん……今は私が抱っこしたほうがたぶん落ち着くよ」
そう言って、ぎゅっと目をこすりながらベビーベッドへ向かう。
その後ろ姿がたまらなく愛おしくて、そしてどこか頼もしい。
赤ちゃんは彼女の胸に抱かれると、ぴたりと泣き声を弱めた。
小さな口が、空気を探すように動く。
「お腹、すいたのかな。……ねえ、ミルクお願いしてもいい?」
「うん、任せて」
キッチンに向かいながら、
深夜の静けさの中で湯を沸かす音がこんなに心強いとは思わなかった。
毎日が初めての連続で、緊張して、戸惑って、
でもそのたびに胸がじんわり温かくなる。
哺乳瓶を持って戻ると、あかりちゃんはゆっくり揺れながら赤ちゃんを抱いていた。
「ありがとう……あなたも眠いよね」
「大丈夫。ふたりでやるんだから」
渡したミルクを、彼女は慎重に赤ちゃんの口元へ運ぶ。
上手に吸えたときの“ちゅっ、ちゅっ”という小さな音が、
やけに愛おしい。
「ねえ、かわいいね……」
「うん。なんでだろうな、こんなに胸がいっぱいになる」
寝不足で目はしょぼしょぼなのに、
ふたりして赤ちゃんを見つめながら、何度も何度も笑ってしまう。
ミルクを飲み終えると、赤ちゃんはふにゃっと口を緩めて、
眠るとも泣くともつかない顔で僕たちを見上げた。
「げっぷ出るかな……」
「よし、交代しよう」
そっと抱き上げて背中を優しく撫でる。
不器用な手つきでも、赤ちゃんは安心したみたいに静かになる。
あかりちゃんはベッドに腰を下ろし、少しほっとしたように息をついた。
「ねえ……すごいね。生まれてから、毎日がこんなに早いなんて」
「ほんとにね。でも、不思議と大変って思わない」
「うん……私も」
ふたりで赤ちゃんを挟むように座って、
ほんのり明るいスタンドライトの下で見つめる。
小さな指、小さな鼻、小さな胸が上下するたびに、
この小さな命のすべてが愛しくてたまらない。
「ねえ……ありがとうね」
なんでもないようにあかりちゃんが耳元でつぶやいた。
「あなたがそばにいてくれて、ほんとによかった。
きっと私ひとりじゃ、泣きたくなってたと思う」
僕はそっと肩に手を回した。
「こっちこそ。あかりちゃんがいてくれたから、俺も頑張れるんだよ。
……これからも三人で、一緒に乗り越えようね」
あかりちゃんは静かに寄りかかってきた。
おでこが僕の肩に触れる。
「うん……ずっと一緒に頑張ろうね」
その言葉が、深夜の静かな部屋にふわりと溶ける。
赤ちゃんが小さく息を吐いて、ふにゃっと笑ったような気がした。
眠気も疲れも全部吹き飛ぶほど、
この瞬間は、幸福そのものだった。
――初めての育児の夜は、
想像していたよりずっと忙しくて、
でもそれ以上に、
“いままででいちばん幸せな夜”だった。

