七月の夕方。窓から差し込む光は夏の強さを帯びながらも、どこか柔らかく、まるで一日の終わりをそっと告げるような琥珀色に染まっていた。仕事を早めに切り上げて帰宅すると、あかりちゃんはリビングのソファで、ふわりとしたワンピースの上からお腹をそっと撫でていた。数週間前から少しずつ膨らみ始めたそのお腹は、見慣れてきたはずなのに、その日も胸がぎゅっと締めつけられるほどいとおしく感じられる。
「おかえり。今日も暑かったでしょう?」
振り返ったあかりちゃんの笑顔が、眩しいほどに穏やかだった。
コップに氷を落としながら、「少しだけ早く帰ってこれたんだ」と告げると、あかりちゃんは嬉しそうに目を細め、ぽんぽんとソファの隣を叩いた。「ここ、空いてるよ」と言わんばかりに。
ふたりで寄り添って座るのはいつものことだったけれど、今日はその距離がひときわ特別に思えた。お腹に宿る命の成長と共に、彼女の体も気持ちも、少しずつ変化していく。その変化に寄り添うたびに、「家族」という言葉の意味が、現実味を帯びて胸に降り積もってくる。
あかりちゃんはぼんやりとお腹を眺めながら、「最近ね、なんだかお腹の奥がふわってする瞬間があるの」と言った。
「え、それって…もしかして…」
「ううん、まだ分からないの。ただ、気のせいかもしれないし。でも——」
と、言葉を途中で区切った。
そのときだった。
「あ……」
あかりちゃんが、驚いたように目を見開いて動きを止めた。
「どうしたの?」
思わず身を乗り出すと、彼女は胸に手を当てて息を整えながら、ゆっくりと微笑んだ。
「……いま、動いたかも」
その言葉に、心臓がどくん、と跳ねた。
「本当に? ど、どんな感じだった?」
「んっとね……お腹の中で、小さな泡がひとつ、ぽんって弾けたみたいな……そんな優しい感じ」
あかりちゃんは自分のお腹にそっと手を添え、その温もりを確かめるように撫でた。
僕も反射的に手を伸ばしかけて、でも途中で動きを止める。
「……触ってもいい?」
「もちろんだよ。むしろ……一緒に感じてほしい」
その言葉に背中を押され、そっと手を添える。あかりちゃんのお腹はほんのりと温かく、柔らかくて、触れるだけで胸が熱くなる。
しばらく待っていると——
微かに、ほんの微かに、お腹の奥から「とん」とノックされたような気がした。
「いま……?」
「うん。たぶん、それ……赤ちゃんだよ」
時間が止まる。
この小さな衝撃が、ただの身体の変化ではなく、確かに「命の存在」からの合図であると理解した瞬間、胸が込み上げる感情でいっぱいになった。
嬉しさ、驚き、実感、愛おしさ。
どれかひとつに言い表すことができないほどの感覚が、波のように押し寄せる。
「あかりちゃん……すごいね……赤ちゃん、本当にここにいるんだね」
「ふふ、前からいたんだけどね。でも、こうして動いて教えてくれるのは初めてだから……ちょっと、泣きそう」
あかりちゃんは目元を指で押さえ、ふるふる震えるように笑った。
「泣いていいよ。僕も……なんか泣きそうだし」
「だめ。一緒に泣いたら止まらなくなるから」
「じゃあ……笑いながら泣こうか」
「あ、それならいいかも」
ふたりで顔を寄せ合いながら、涙をこぼして笑った。
あかりちゃんの肩が小さく震え、その震えに合わせるように、もう一度お腹の中から小さな「動き」が伝わった。
「ほら……さっきよりはっきりした」
「ほんとだ……! おーい、ここにいるよーって言ってるみたいだね」
赤ちゃんは言葉を持たないけれど、そのひとつひとつの動きが確かな意思のようで、胸がきゅうと痛くなるほど愛おしかった。
「ねえ……」
あかりちゃんが僕の肩に頭を預け、そっと囁く。
「こうして胎動を感じるたびに思うんだ。わたしたち、本当に家族になるんだなって……」
その言葉に、僕はあかりちゃんの手をぎゅっと握った。
「うん。もう、ずっと前からそう思ってたけど……今日、確信に変わったよ。これから先、どんなことがあっても、ずっと一緒に支えていこうね」
「うん。……あなたと赤ちゃんと、わたしと。三人で、ずっとね」
夕日がゆっくりと沈んでいく部屋の中で、あかりちゃんが初めて胎動を感じた日に、ふたりの心はまた一段深く結ばれていった。
小さな命がくれた「とん」という合図。
それは、これから始まる長い家族の物語を照らす、最初の光のようだった。

